蒲生三丁目は大阪を代表する六つの公園が存在する世界でも類を見ないロケーションなのである。
蒲生三丁目には3マイル圏内に、大阪城公園をはじめ、花博公園鶴見緑地、桜ノ宮公園淀川河川敷公園、城北公園、中之島公園という、大阪を代表する六つの公園が存在する世界でも類を見ないロケーションなのである。
大阪市東部の区の蒲生3丁目の仙馬オートの角を東に入った路地の一角に、「蒲生三丁目の家」がある。昭和30年代の築50年の古い平屋の空き家をリノベーションした小さな家である。昭和30年代とは、舗装されてない道路の太陽と乾いた土の香り、夕立ち直前の空気の変化、雨の香り、路地裏の物売りの声、通奏低音のいうように流れる家内工業の織機の音。それは美化されたノスタルジーだけではなく、人情や社会的紐帯が確かに存在した。
しかし、昭和30年代は現在に比べて人権意識が低く環境に対する配慮もなく、モラルもマナーもない時代。現在以上の「格差」と「貧困」も存在した。街中至る所で臭さを感じた。現在のPM2.5のような光化学スモッグなど公害や薬害問題は日常茶飯事、体罰や校内暴力もひどかった。しかし、ご近所間の優しさにあふれた交流や同じ商店街で暮らすもの同士が家族同然に関わり合い、そこに暮らす人々がみんなで悲しんだり喜んだり、そしてどんな人にも居場所があった。もちろん、居場所があるというのは、現在では考えられないようなプライバシーが制限された生活であった。しかし、どんなに”貧しい”時代でも、夢があるから前を向ける。昭和30年代は経済や様々な社会的権利も貧しいかったけれど、人々は夢を持ってパブリックネスの生活を共有していたのである。
蒲生三丁目の裏通りを歩いていると、calling youが聞こえてくる。日々の慌ただしい生活の中で、心を癒やすような音楽が聴越えてきたら「オープン」している。
地区内の小さな住居、路地に様々なアートがきめ細かく並べてられている。ちっぽけな住居や都市空間でも、創意工夫で美しいギャラリーやミュージアムになる、というわけだ。この住居ギャラリーや路地裏アートは、高密度に暮らす〝ガモウ〟ならではの展示手法。身の回りの小さなところからアートを育てていくこの伝統技術を深め、地区全体に広げていくことが重要である。
小さなアートを路地、玄関口、窓際、ベランダなどに持ち込み、できればご近所で相談しならが通りすべてが美しく調和のとれたデザインとなるように工夫し、地区全体のアート化につなげていく。開発により都市をアート化し、アートを増やすことはすばらしいことだ。しかし、〝ガモウ〟には〝ガモウ〟のやり方がある。小さなアートを慈しみ、それらを近隣で分けて、どんどん増やしていく。その過程で、近隣とのコミュニティが密になり、町にコミュニケーションが広がり、スマイルが増えていく。安全で安心できる住みよい美しい町が育てられていく。
「スリープする家 」ーJUSTICEコンセプトとクローズドオープン。
100円硬貨1枚で気軽にコーヒーを飲み、アート、絵本、雑貨など小さな「芸術」が楽しめる。
料理は『ミネストローネ』しかないが、材料さえあれば何でも作る。
「蒲生三丁目の家」は、一般の「客」が、来訪時にチャイムを鳴らし入店の意志とあいさつを行い、オートロックを解除を確認してから部屋に向かうスタイルだ。一見の一般の客に対しては“JUSTICE”という、ユニークなサービスコンセプトがある。
「蒲生三丁目の家」の特色はオープンソースであるということがいえる。誰しもが自由に「参加」することが出来、プロジェクトを発展させていくことが可能なのだ。客は近隣や知人だけではなく、その空間性に興味を持った国内外の有名アーチスト、学者や社会学やジャーナリズムが多く来訪した。有名なタレントや文化人、大企業の社長や大学の教授だからといって全く特別扱いされることはなく、逆にその無名性が心地よい時間を過ごせることが結果的にリピートに繋がっていったのである。概して、本物のアーチストはマナーやモラルもよく、たいへん謙虚で真摯な対応だ。しかし、広告代理店などの一般的に「業界」と呼ばれる層は特権意識が強く非常に厄介だ。過去にもマスコミメディアがドキュメントを作りたいといってきて、私たちに協力しているので参加費は払いたくないと言ってきたが、私たちは彼らの参加を断りました。このプロジェクトの触媒性を保つためには、内部に特権的な人間を作ってはいけないという考え方によるものだ。
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