リボット・クエスト アニミズムー調和と祈りの象徴である土偶
リボット・クエスト
アニミズムー調和と祈りの象徴である土偶
ショーク
古来、日本の先住民である縄文人は、生きとし生ける全てのもの、即ち、万物には精霊が宿るというアニミズム(土偶/縄文時代)を信仰していた。
日本的アニミズムは、人が作った人形にも神霊は宿り、人間以上に生き生きとしたものにし、観客は人形に強く感情移入する。ものを捨てられない人というのは、アニミズム的発想で、全てのものに神霊が宿っているのだから、畏れ多くて捨てられないという想いもあるかもしれない。しかし、自分のところから離れたって、それがなくなる訳ではない。むしろ、自分が手放すことで、それが別の形になって流転し、人間からすれば長いが、宇宙にとっては一瞬の時間で、新しいものに生まれ変わるのである。寄せ集めること、未完全であることが「アッサンブラージュ」の原点である。
不完全な素材形状を不統一なパーツアッセンブリを自由に動かし、組み替えることができる。この性質をふんだんに利用し、生み出されたのがあの奇妙な身体をもつ〝リボット〟の数々だったのである。〝リボット〟の身体は奇妙さはもちろんだが、ユ ーモラスな感じも与えられている。ショークの作品の数々は概して、「幼稚」で「プリミティブ」なものとして 消費されているようだが、それは作家の意図するところからは微妙にずれてい るとはいえない。それならば、ショークによるあの奇妙な身体の〝リボット〟は不完全であることの正当性を表象している。「完全」という概念に対して、〝リボット〟という直接的には社会的有用性のない「オブジェ」雑貨 を生み出すという皮肉をきかせたものだった。「表向きは不完全と称されているものこそが、じつは悦楽」であり、それこそが「完全な有用を目的とする場合に必ずついてまわる不快の感情を追い払ってくれ、 好奇心にそって表通りを外れた横道のかずかずを教えてくれる」のだという。 存在そのものに意味を求める多くの〝リボット〟は人間の身体から大きく異なった形態をしているが、そこに身体パーツが含ま れていることからそれが人間を模したものだと理解することができる。各身体パーツは、頭‐胴‐脚というように本来は連 続しており、分かれては存在していない。つまり各々の「パーツ」の存在とは、 ことばに対応した概念レベルでの区切りに他ならないのである。そのため「全 体像」が解体され、本来あらぬ位置に部位が配置されるとき、概念レベルでし かありえないはずのパーツがそれとして「現われ」てくる。「馴れ親しんだも の」であるからこそ、それは「不気味なもの」として現われるのである。ひとつきりの表象では複雑に変化していく「現実」を描きとめるのは難しい。この「二重写し」の現実をショークは「ダブル・イマージュ」と呼んだ。ショークの作品はあらゆる対象には「広がり」を見いだせる。
ショークとアールブリュット
アール・ブリュットとは反権威、反アカデミズムというカウンターカルチャーの概念であり、すべての人間が芸術家となり、オルタナティブな世界観を表象するプリミティブな「小芸術」=コモディティであると言える。現代の芸術における「権威」と「マーケット」の二極化においては、「小芸術」=コモディティが主題化されることは少ないが、アール・ブリュットの世界においては、「小芸術」=コモディティこそが芸術の要である。
ショークの作品に通底するテーマは、〝アッサンブラージュ〟という構成的概念だ。〝アッサンブラージュ〟とは寄せ集めることと、そして不完全であるということを意味する。様々なところから集めた断片を統合して、一次元超えた新たな断片を作り出す姿勢を意味している。西欧の伝統的な美意識には黄金比に起源するプロポーションの観念があり、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じない。むしろプロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美がある。という積極的なアプローチを展開している。
「古いもの」、「傷のついたもの」、「壊れたもの」にこそ、偶然性、即興性、意外性といった要素が常につきまとう。決して過度な技巧に走らず、廃材や不用な部品など、手元の資源をどう再生するかを考える。ショークはアカデミーの論理空間でのレトリックではなく、具体的にスラッカーたちが廃品回収により拾得した廃品や廃家電を、プリミティブな技術によりアップサイクルに転用している。
そして、〝アッサンブラージュ〟にはもう一つの意味がある。それは鳥の群れやイワシ玉と呼ばれる小雑魚が何万匹もの群れでつくる球形群のようなグループの概念である。私たち障がい者一人一人は、無名で小さなイワシに過ぎないが、イワシ玉と言われる何万匹もの魚の群れでつくる球形群は、被捕食者が捕食者からの防御のためにつくる。そして、何よりその光景は壮大で美しい。
ショークの形象するアール・ブリュットは現代アートの領域ではなく、過度な技巧やアート性を廃し、誰もが自由に参加できるオルタナティブな世界観であり、私たちの立っているグラウンドは白線に覆われた、決して「フラット」なものではなく、「デコボコ」の瓦礫の上だ。設計図やAIのディープ・ラーニングなどは何の役にも立たない。つまり、ショークのアール・ブリュットとは貧困や差別、災害、紛争などにおける、障がい者や高齢者、被災者、難民たちによる〝瓦礫の上のアート〟、つまり、ヒューマニティーのことなのである。
ショークの「小芸術」=コモディティは、アール・ブリュットの世界において、「社会的なサステイナビリティ」と「環境的なサステイナビリティ」の一石二鳥を狙い、障がい者たちが「支えられる側」から「支える側」にドラスティックに転換する。ショークの作品は芸術をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物を超えて、人間の動的なアクションのなかで考え、無名な人間の「小芸術」=コモディティにより、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすインスタレーションである。
そして、ショークの「小芸術」=コモディティは美術館やギャラリーとかじゃなくて、小さなスペースの「家」に分散して展示されて行く。「世界を変える家」という壮大な芸術アプローチである。地球規模での〝芸術の再構築〟の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりにするべきという考え方だ。ショークの「小芸術」=コモディティは、都市や国家という地理的概念を超えたリージョンというオルタナティブなレイヤー=領域において、無数のアッセンブリーを構成し、社会の細部に至るまで重要な意味を持つ〝境界なきアート〟だとも言える。
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